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市川筑前守に関する墓碑

公開日 2013年03月21日

更新日 2025年05月20日

 戦国時代、上杉謙信と武田信玄が信越国境で度々争っていたころ、木島平には栄村の豪族・市川氏が進出していました。木島平村には市川氏によって復興したという由緒をもつ寺院仏閣が多く、村の歴史において画期となる時期でもありました。しかし、市川氏は戦国の動乱を生き抜いたのち、木島平を離れてしまったため、その足跡は現在までの間で曖昧になっています。

 ここで紹介する「市川筑前守」という人物は実在の人物ではなく、木島平を治めた市川信房・勝房という親子2代をまとめた存在です。市川信房が菩提寺として建立した高石地区の泉龍寺には、「市川筑前守の墓碑」として、宝篋印塔型と板碑型の二基の墓碑が並んでおり、前者は信房、後者は勝房のものとされています。

 市川信房は川中島の戦いの頃に当主だった人物で、武田信玄に味方し、「市川藤若」の名前で歴史に登場します。のちに「市川治部少輔信房」となり、栄村、野沢温泉村や木島平村を拠点に、上杉方に対抗する「国境の国衆」として活躍しました。信房はのちに武田家の滅亡で織田方につき、本能寺の変で織田方が引き上げたのちは、上杉景勝に属して生き残りをはかりました。謙信の頃と異なり、景勝の本拠地とは隣接していたことで縁があったのか、「入魂」の仲だったと手紙に残されています。

 戦国時代が終焉に向かう頃、信房は没して嫡男の勝房(市川長寿丸)が後を継ぎました。勝房は木島平に真宗寺を建てたことが伝わっていますが、病弱だったとされます。勝房の代に上杉家は米沢に移され、勝房も従っています。景勝や直江兼続とやり取りをした手紙が伝わっていますが、若干18歳で世を去りました。そののち、市川家は信房の弟・房綱が継ぎますが、房綱も大坂冬の陣で負傷し、その傷が元で亡くなってしまいます。

 戦国時代の記憶が風化しつつあった江戸時代に、市川氏は藩主の命令で、家系図の作成に着手します。しかし家伝でも木島平でも、室町・戦国時代の情報は曖昧になっていたため、市川氏が作成した系図には「信房―勝房」の間に「房幸」という人物を加えています。この「房幸」という人物は、木島平での聞き取りで登場した「市川筑前守」に対応させるため、整合性をとるために創作したと考えられています。実際に信房も勝房も「筑前守」を名乗った事実は確認されておらず、なぜ木島平の人々が「市川筑前守」と記憶していたのかについてはわかっていません。

 

市川筑前守に関する墓碑

市川筑前守に関する墓碑
住所 往郷3705-イ(泉龍寺)
村指定番号 33
指定年月日 昭和62年2月19日

地図

市川筑前守に関する墓碑

お問い合わせ

木島平村教育委員会 生涯学習課 生涯学習係
TEL:0269-82-2041