公開日 2013年3月28日
更新日 2024年12月17日
村の概要
誕生昭和30年2月1日
木島平村が誕生したのは昭和30年2月1日。穂高村、往郷村、上木島村の3村が合併して生まれました。名前の由来は、中世に木島郷があり、近世にはこの地一帯が木島平と呼ばれていたことから名付けられました。
位置 138゚24',36゚51'
これは役場の東経と北緯を示したものですが、緯度はヨーロッパではギリシアのアテネよりやや南、アメリカではサンフランシスコよりやや南にあたります。
長野県の北端、千曲川をはさんで飯山市の対岸に位置し、県庁所在地の長野市からの距離は約40キロメートルです。
面積 99.32平方キロメートル
村の面積は 98.54平方キロメートルでしたが、昭和56年に栄村との境界確定を経てから99.31平方キロメートルとなりました。また平成27年3月6日付けで99.32平方キロメートルに変更となりました。
標高 335メートル
役場の海抜は335メートル。樽川、馬曲川の扇状地、海抜320~750メートルの間に26の集落を形成しています。南に高社山(1351.5メートル:写真右)、東南に高標山(1747.9メートル)、そして東はカヤの平高原、北は毛無山系と三方を山に囲まれています。
気候 110日間
気候は内陸性気候で寒暖の差が激しく、年平均気温は11度。長野県内でも有数の豪雪地帯で、冬季間の積雪期間は110日間で、積雪深は1.5~2.0メートルにも達し、積雪期間の平均降水量は1,315ミリメートル、長野市の938ミリメートルと比較すると40パーセントも多く、農作物の栽培に適した自然環境をつくりだしています。
村章(昭和48年7月14日制定)
昭和48年、広く一般から公募して、同年7月14日制定したもので、木島平の「木」の字を図案化し、未来に向かってはばたく鳥をあらわしたものである。昭和50年には村の花として「福寿草」を、平成7年には村の木として「ケヤキ」を制定しました。
村の花 「福寿草」(昭和50年7月15日制定)
村の木 「ケヤキ」(平成7年9月10日制定)
人口 4,375人(令和2年10月1日現在:令和2年国勢調査)
合併当時、8,206人だった村の人口は、昭和60年10月1日の国勢調査で6,000人を切り、平成7年には5,850人、平成12年には5,513人、平成17年には5,312人、平成22年には4,939人、平成27年には4,658人、令和2年には4,375人となり人口は減少傾向にあります。平成27年からスタートした第6次総合振興計画では「これからの農村を生きる~みんなで楽しみをつくりだす村~」をキャッチフレーズに木島平村で生活する一人ひとりが「木島平村に住んでよかった」、「木島平村に住み続けたい」と実感できる村づくりを進めています。
高齢化率 35.7パーセント
65歳以上の人口比率は平成12年で30.1パーセント、平成17年には30.9パーセント、平成22年には32.2パーセント、平成27年には35.7パーセント、令和2年には40.3%となっています。高齢化は全国的なものですが、超高齢化社会の到来となります。人口の減少を抑え、持続可能な村づくりを進めることが村づくりの大きなテーマの1つといえます。
産業
合併当時の村の産業の中心はなんといっても農業。昭和35年の統計では第1次産業75.1パーセントと8割近くを占め、第2次産業は8.9パーセント、第3次産業は16.0パーセントに過ぎませんでした。しかし、令和2年には第1次産業23.0%、第2次産業22.0%、第3次産業55.0%となっています。(令和2年国勢調査)
ふう太
木島平村のシンボルマーク「ふう太」。村の境界線をアレンジした形に、鬼の首塚伝説などの「鬼」をイメージしたマーク。鉢巻は村づくりに対する「がんばるぞ!」という意欲を、土台の曲線は山並みや、清流、実り豊な大地を表現しています。
村民憲章(昭和50年7月15日制定)
村歌「栄え行け木島平よ」(昭和48年7月14日制定)
村歌「栄え行け木島平よ」 作詞:小出ふみ子 作曲:川崎祥悦
- 豊かなる 千曲(ちくま)の流れ 西に見て
高社(たかやしろ) ゆるやかに たなびくところ
わが夢のふるさと 木島平よ
おお ちちははの村 花ひらく - 清らかに 泉は湧きて ほたる飛び
大空が 澄み渡る 希望の朝は
わがちからためさん 木島平よ
おお たのもしき村 遠い雲 - 健やかに 自然の恵み 身に受けて
野に山に しあわせの 緑はつづき
わが友はほほえむ 木島平よ
おお うるわしき村 栄(さか)え行け